ダイソー社長矢野博丈氏は、幾度もの困難を乗り越え、移動販売の矢野商店を世界的な大企業にまで成長させた経営手腕と根性は尊敬に値します。
一体どんな生活をしてきたのか、ダイソー社長矢野博丈氏の経歴をチェックしていきましょう。
そして、ダイソー社長矢野博丈氏から学べるところをたくさん学び取りましょう。
矢野博丈/ダイソー社長の経歴は?
1972年 矢野商店 創業
1977年 株式会社大創産業として法人化
1987年 株式会社大創産業が100円SHOPダイソーの店舗展開 開始
1991年 高松市に「ダイソー」直営店第1号を出店
2001年 台湾に出店(海外1号店)
2018年 矢野博丈社長の次男靖二氏が代表取締役社長 就任
ダイソー社長の矢野博丈氏は大学卒業後、広島県に戻り、奥様の家業が営むハマチ養殖業を継いだが、3年で倒産、700万円もの借金を背負い夜逃げをします。
その後、様々な職業を転々とし9回もの転職を繰り返した後、1972年にトラックで雑貨を移動販売する矢野商店を創業しました。
当時の移動販売は、バッタ屋と呼ばれていて、経営不振や倒産した企業などの在庫品を安く仕入れ販売していました。
空き地や店舗の催事場などで商品陳列から補充、会計などすべて一人でこなしていました。
そのため、値付けが間に合わず、全部100円で売っていたそうです。
そんな時、お客様たちが「この店は品質が悪い。安物買いの銭失いだから買わない方がいい。」と話しているのが聞こえてきたそうです。
危機感を感じた矢野博丈社長は、もうけを度外視してでも、品質にこだわろうと決心します。
良いものを売り続けているうちに、お客様からの信用を得ることができ、その評判は口コミで広がっていきました。
商売が軌道に乗ったと喜んだのも束の間、商品の保管倉庫から出火。自宅も半焼しました。
火災で、ほぼ全ての財産を失ってしまいました。
その上、放火犯と疑われ、警察に捕まったそうです。容疑はすぐ晴れましたが、また、一から出直しです。
矢野博丈社長は、諦めることなく次の行動に出ます。
移動販売から店舗方式に販売スタイルを変更しようと考えます。
が、資金がないので、矢野博丈社長は、スーパーの一角に販売コーナーを持たせてほしいと頼んで回りました。
1970年代のオイルショックで同業者が次々と辞めていくなかで、矢野博丈社長は、商売を軌道に乗せ、株式会社大創産業として会社を法人化しました。
しかしここで、転機が訪れます。
取引の6割を占めていたお得意様から取引の中止を言い渡されます。
それなら、自前で店舗を構えて、そこで売ろうと100円ショップを作ります。
これが今のダイソーの始まりです。1987年からは本格的に出店を加速させていきます。
そして今度は、バブルが崩壊。日本経済は一気に冷え込みます。
矢野博丈社長は、これは逆にチャンスだと考え、全国展開を進めます。
背景には、消費者が高級志向から低価格帯の商品を好むのではないかという矢野博丈社長の考えがありました。
矢野博丈社長の読みは的中しました。経済的な不況の中で消費者の目は自然と、低価格品に向きます。
ニーズにこたえるため、矢野博丈社長は、取り扱う商品のジャンルを広げます。
安価な上に、多種多様な商品が手に入る利便性が受け、売上を伸ばしていきました。
矢野博丈社長のこだわりは、メーカーや卸業者から大量買付、現金払いで、仕入れコストを下げ、代わりに付加価値をつけた商品の取扱も可能になってきました。
ダイソーの評判は、メディアなどを通じて全国にひろがっていきます。
2001年に台湾への出店を皮切りに、アジア地域、アメリカ、中東地域と世界中に店舗を増やしていき、2010年には世界中に3,000店舗を展開する大企業へと成長していきます。
そして2018年には世界5,000店舗突破しました。
そしてこの年、矢野博丈社長は、代表取締役社長の座を次男の靖二氏に譲ります。
身内に譲る考えはないと公表していた矢野博丈社長でしたが、次男の靖二氏が株式会社大創産業への入社を希望したので、仕事ぶりを見極めて後継者に決めました。
ダイヤモンドオンラインの取材に対し、矢野博丈社長が引退を決めた理由を、体力の衰え、そして、IT社会についていけないことなどを理由としてあげていました。
今までは、現場で走り回って働いていたが、今はもうできない。
そして、今成長している企業のトップは、最新のテクノロジーに強いが、自分にはその能力がないと、話していました。
矢野博丈/ダイソー社長の年収は?
東洋経済新報社「役員四季報2022版」の情報によると、役員報酬1億円越えの一覧に名前がなかったことから、矢野博丈社長の年収は1億円以下だと考えられます。
未上場企業のため正式な発表はありません。
2012年時点では、1億円を超えていたとの情報もありました。
2021年 売上高5,262億円 (引用元:ダイソーホームページ)
未上場企業のため、売上高等の詳しい情報は公開されていません。
東洋経済オンラインによると、2016年効率的に利益を生み出す「高付加価値企業」のランキングで、ダイソーは業界1位となっていました。
オイルショックやバブル崩壊などの大きな経済危機を乗り越え、ピンチをチャンスに変え世界的な大企業にまで成長させた矢野博丈社長の努力と商品へのこだわりは、世界中の消費者に伝わっているようですね。
今では、なくてはならない存在になっていますよね。
矢野博丈/ダイソー社長の学歴は?
数々の苦難を乗り越え成功を掴んだ矢野博丈社長の学生時代を調べてみました。
やはり、学生時代も波瀾万丈の毎日だったのでしょうか。
出身大学
中央大学理工学部二部土木工学科を卒業しています。
父親は開業医でしたが、とても貧しく矢野博丈社長は、かなり苦労をしたそうです。
出身高校は?
広島県立広島国泰寺高等学校を卒業しています。
高等学校在学中は、ボクシングに熱中し、1964年東京オリンピックの強化選手に選ばれるほどの腕前だったそうです。
矢野博丈ダイソー社長の思想や座右の銘は?
「行き当たりばったり」
今を一生懸命生きているという意味で、とても良い言葉なんです。
ずっと行き当たりばったりでやってきて、運よく今まで走り抜けられただけなんです。
「運が大事」「徳を積むことが大事」「恵まれない幸せもある」
人生や会社は、常に崖っぷちを歩いています。
だから、矢野博丈社長自身が気を抜いた瞬間に退化が始まると考えています。
人生困難ばかりでしたが、頑張れる元気な身体があることがありがたいと思っています。
「恵まれない幸せ、恵まれる不幸せ」「仕方がない、仕方がない」「ありがとう、感謝します」
「どん底からどのようにして這い上がってきたんですか?」という質問に対して、矢野博丈社長は、「自分には能力と運がないから仕方ないんだ。」と言い聞かせて生きてきました。
あとは、どんな時でも感謝の心を忘れないことです。
最終的に幸せになれる人は、感謝の心を持った人だと思っています。
「人生に無駄は1つもない」
自分の人生を振り返ってみると人生には1つも無駄がなかった。
いいことも悪いこともいろんなことがあったが、その全ての出来事、人との出会いのおかげで今の自分ができあがっていたんです。
矢野博丈/ダイソー社長の家族はどんな人?
1943年4月19日生まれの78歳、中国北京の出身です。
生家は、8人兄弟の5男です。
敗戦後、父親の郷である広島県東広島市に引き揚げ、中学生の時に、広島市に転居しました。
矢野博丈社長は、大学在学中に結婚されています。
長男の寿一(ひさかず)氏は、医学部を卒業後、医科大学の教授として働いています。
次男の靖二(せいじ)氏は、矢野博丈社長の後を継いで、大創産業の代表取締役社長の職に就いています。
まとめ
- ダイソー社長の矢野博丈社長の最終学歴は、中央大学理工学部二部土木工学科卒業
- ダイソー社長の矢野博丈社長の経歴は、壮絶な失敗と苦難の連続だった
- ダイソー社長の矢野博丈社長は、何度も絶望的な状況に陥りましたが、そのたびに立ち上がった
- 矢野博丈社長は、ピンチをチャンスに変え、ダイソーを世界的大企業へと成長させます。
- 株式会社大創産業は、矢野博丈社長の次男靖二氏が後を継いで代表取締役社長に就任