にしき食品は、ここまで成功するまでに2度危機を乗り越えています。菊池洋会長兼社長の今までの経歴は凄まじいものです。
菊池洋会長兼社長が作り上げたにしき食品ブランドの歴史をチェックしていきましょう。
菊池洋/にしき食品会長兼社長の経歴は?
1974年 凸版印刷株式会社 入社 東北事業部 配属
1981年 株式会社西本食品(現:株式会社にしき食品) 入社 常務取締役 就任
1988年 同社 専務取締役 就任
1991年 代表取締役社長 就任
2016年 代表取締役会長 就任
にしき食品の菊池洋会長兼社長は大学卒業後、凸版印刷株式会社に入社し、東北事業部に配属されます。
菊池洋会長兼社長が同社に入社した当時は、大手食品メーカーがこぞってレトルト食品の販売に力を入れていました。
消費者は、手軽さと新しい食文化に興味を示し、その人気は全国的に広がっていきます。
営業部門に所属していた菊池洋会長兼社長は、レトルト包材から生産設備までを企業に売り込んでいました。
そこへ宮城県に本社を置く、老舗の佃煮製造業を営んでいた株式会社にしき食品が佃煮業界の先細りを感じレトルト食品製造に乗り出そうとしているという話を耳にします。
早速、同社に自社開発のレトルト釜(レトルト殺菌装置)を売り込みに行きました。
にしき食品は、製造装置を一式購入したものの、当時の同社には、明確なビジョンがなく、設備投資費だけが重くのしかかっていきます。
打つ手がなかった同社は、菊池洋会長兼社長に商品開発を手伝ってほしいと頼み込みます。
老舗の社長から何度もお願いされ、菊池洋会長兼社長は、凸版印刷株式会社に籍を置いたまま、出向という形で、にしき食品のレトルト食品開発に協力します。
数年間、にしき食品の開発に携わってきた菊池洋会長兼社長は、同社社長から「うちに来て一緒に商品を作り続けてくれないか。」という誘いを受けます。
考え抜いた後、菊池洋会長兼社長は、1981年にしき食品株式会社に転職する事に決めます。
早速、ビーフカレーやパスタ用トマトソースを開発しスーパーに売り込みに行きますが、新規参入の中小企業というだけで相手にされませんでした。
打開策となったのが、業務用PB商品でした。
業務用なら、一度契約が決まれば、比較的長く大口の注文を受けられます。
さらに、大手ではできない小ロットでの注文も受けられます。
こうして、一般向け商品からは撤退せざるを得ませんでしたが、中小企業の強みを生かせる業務用PB商品として、ファミリーレストラン、弁当チェーン、コンビニと広がって行きました。
しかし、業務用にもデメリットはありました。
狂牛病などの動物の病気や事件などが起これば風評被害の影響が直撃します。
そこで、業務用一辺倒の戦略を変更し、一般消費者向けの小売商品の開発を始めます。
様々なPB商品を手がけてきた同社の強みは、約5,000件のレシピです。
この多彩なレシピと生産技術を蓄積してきた同社には、新商品の開発は以前ほど大変な作業ではありませんでした。
菊池洋会長兼社長は、一般の消費者向け商品には他にない付加価値が必要だと考え、素材にこだわり安心安全なレトルト食品づくりを掲げます。
素材を厳選し、高付加価値商品の開発をしていた頃、にしき食品に危機が訪れます。
それは、1998年に起きた毒物カレー事件です。
日本中を震撼させたこの事件以降、国民がカレーを避けるようになりました。
顧客大手コンビニチェーンは事件の3日後には委託生産の停止を決定し、にしき食品は約17億円の売上の半分を失ってしまいました。
「倒産するんじゃないかと思った。」と菊池洋会長兼社長は当時を振り返ります。
そんな危機の中、菊池洋会長兼社長は、大きな決断を下します。
売り上げの8割を占めていたレストランやコンビニ、弁当チェーン向けの業務用商材の販売と決別し、一度は断念した小売り用へとかじを切ることにします。
高価格帯を狙えば勝機はあるはずだと考えが菊池洋会長兼社長にはありました。
そのためには、素材にこだわることが付加価値になると、無添加・無着色の食品づくりを徹底しました。
この決断は、いつかは大口顧客の獲得につながはずだという菊池洋会長兼社長の読みは見事に的中し、生活雑貨から食品へ領域を広げようとパートナーを探していた良品計画が、素材にこだわるにしき食品に白羽の矢を立てました。
バターチキンカレーのようなヒット商品も生み出しながら、両社は二人三脚でレトルト食品事業を拡大してきました。
事業転換に成功し、新路線で走り始めたにしき食品に更なる試練が襲い掛かります。
2011年東日本大震災で本社屋と工場が津波被害を受けました。
絶望の淵に立たされた菊池洋会長兼社長とにしき食品の社員たちを救ったのは、パートナーである良品生活の当時の社長からの激励の手紙でした。
「復興するまで待つよ。」という言葉で全社員が奮起し、なんと被災から1カ月半で生産を再開。
製造者としての責任を果たしました。
そしてこの年、自社ブランド「にしきや」の展開を始めました。
「にしきや」誕生から10年後の2021年、食文化の変化と共に新たに立ち上げたのが、「NISHIKIYA KITCHEN」です。
約100種類のレトルト食品を取り揃えた専門ブランドです。
もちろん食材や調味料にはとことんこだわり抜いています。
菊池洋/にしき食品会長兼社長の年収は?
個人情報のため、非公開となっていました。
1998年頃、業務用PB商品を専門に製造販売している時期は売上高が17億円ほどだったという記事がありましたが、今は、不景気にもかかわらず売上高69億円。
同社の工夫と経験が実を結んだ結果ですね。
良品計画の食料品は、目新しいものが多く度々メディアで取り上げられていますが、その陰ににしき食品がいたということになりますね。
菊池洋/にしき食品会長兼社長の学歴は?
包装材の会社から、食品加工業へ。異業種へと華麗な転身をとげ、トップにまで登り詰めた菊池洋会長兼社長の学歴はをみてみましょう。
出身大学
菊池洋会長兼社長は、山形大学工学部を卒業しています。
山形大学は6つの学部と6つの大学院研究科を有する総合国立大学です。
明治11(1878)年に開校した大学で、東北の雄大な自然の中にキャンパスを構えています。
出身高校は?
菊池洋会長兼社長に関する個人情報はあまり公表されていません。
出身地が、宮城県という情報もありますし、大学が山形大学で、大学卒業後初めて就職した凸版印刷株式会社の東北事業部は、宮城県仙台市にあることやにしき食品株式会社の本社も同じく宮城県仙台市にあることから、宮城県あたりの高等学校を卒業した可能性が高いと考えられます。
菊池洋/にしき食品会長兼社長の思想や座右の銘は?
水にこだわり、塩にこだわり、化学調味料や香料に頼らない味づくり。
水や、塩がおいしければ、ほかの調味料は少なくて良い。
素材にこだわれば旨味は食材から出てくる。
他にはない、他ではつくれないものを創りたい。
そんな想いを大切にしながら、これからも本物志向を突き進んでいきます。
“レトルトだけどおいしい”から“レトルトだからおいしい”へ。
『にしき食品』は、レトルトの価値観をもっともっと高めていく会社でありつづけたい。
レトルトを通じて新たな食材を開拓し、食文化を伝えることも当社の重要な役目。
同社のレトルト食品は、忙しい現代の便利な食品ではなく、食材の良さを伝える商品です。
菊池洋/にしき食品会長兼社長の家族はどんな人?
菊池洋会長兼社長は、1949年生まれの72歳で宮城県出身です。
菊池洋会長兼社長の個人情報に関しては、ほぼ公表されていません。
家族に関しても情報がありませんが、結婚されていたら年齢的には、お孫さんがいてもおかしくないですよね。
まとめ
- 菊池洋会長兼社長の最終学歴は、山形大学工学部卒業です。
- 菊池洋会長兼社長の経歴は、凸版印刷株式会社に入社後、縁あってにしき食品株式会社に出向し、そのままにしき食品株式会社に転職します。
- 菊池洋会長兼社長は、大手食品会社が参入しにくい業務用PB商品に販路を見出します。
- 菊池洋会長兼社長は、再度一般向け小売商品への参入を模索します。
- 菊池洋会長兼社長は、何度も大きな決断をし、会社を守り育ててきました。