2022年から株式会社レプレゼントからオーサム株式会社に、社名変更した社長の堀口康弘氏。
堀口康弘社長の経歴は、実に面白いです。堀口康弘社長だからこそできる経営を調べました。
堀口康弘社長の魅力に迫っていきましょう。
堀口康弘/オーサム株式会社社長の経歴は?
1976年 渡米 リカーショップで勤務
1979年 日本料理店で修業
1981年 米国永住権を取得
1982年 有限会社レプビイハウスを創業
1988年 千葉県松戸市に生活雑貨店「off&on」1号店オープン
1989年 米国の飲食業から撤退
1990年 株式会社レプハウスと社名変更し、輸入総合商社として再スタート
2009年 東京都港区青山にカフェ&ショップ「cafe table TERRACE」オープン
2014年 東京都渋谷区神宮前にSPA雑貨業態「AWESOME STORE」原宿表参道店オープン
2017年 株式会社レプレゼントに社名変更
2022年 オーサム株式会社に社名変更
大学進学が叶わなかった堀口康弘社長は、その挫折を乗り越えようと、渡米する決心をします。
節約のため、アパートを解約し、野宿をしながら日雇い労働をして、資金を貯めました。
一定の資金を貯めた堀口康弘社長は、単身渡米します。
到着後、すぐに仕事を探し、やっとのことで危険なスラム街に、店を構えるリカーショップで働くことができるようになりました。
数々の危険な目に遭いながらも、必死に働きました。
そのまじめな働きぶりが認められ、倉庫整理から店長にまで昇進しました。
3年間勤務し、あるきっかけから永住権申請をするため、日本食店で修業をすることになりました。
その後、リカーショップのオーナーと共同で、日本食ファストフード店を立ち上げます。
永住権獲得のため、いったん帰国した日本で、ある食器メーカーの経営者と出合い、意気投合し、1982年レプハウスを創業します。
雑貨の卸売事業をスタートさせ、翌年米国の飲食業からは撤退します。事業は順調に走り出しましたが、バブルが弾け、景気が悪化します。
クライアントであった流通企業のバイヤーたちが、自信をもってラインナップした商品を以前ほど仕入れてくれなくなってきました。
こんなにいい商品を店頭に出せないのは悔しい。仕入れてもらえないなら自分達で売ればいい。
そこで堀口康弘社長は、1998年に、雑貨の卸売事業から小売り事業への転換を決断し、千葉・松戸に生活雑貨店「off&on(オフノオン)」1号店をオープンさせました。
しばらくは順調とは言えないような状況が続きます。
そこで、店頭で販売する商品のコンセプトを決め、見直しをしたところ、徐々に売上が伸びていき、大人気ショップとなりました。
ここで、また堀口康弘社長は、大きな決断をします。卸売業からの完全撤退です。
それを機に、直営での出店を加速させていきます。
さらに、製造から販売までを手がけるSPA(製造小売り業)へと進化を遂げ、「off&on(オフノオン)」のほか、姉妹ブランドの「cafecafe table」、和テイスト雑貨店「ETOWA」と拡大させていきます。
そして、2009年には、東京・青山でカフェ&ショップという、今までにない新たな形でのショップ「cafe table TERRACE」をオープンさせます。
2014年には、雑貨専門店が立ち並ぶ原宿表参道に「AWESOME STORE」1号店をオープンさせました。
激戦区に出店した理由を堀口康弘社長は、「話題性の喚起と各店舗の買い回りという相乗効果を狙いました。」と話しています。
同店は、デザインと品質に徹底的にこだわり、低価格帯の雑貨を取り扱っています。
同社は、全商品の企画・デザインはすべて自社で行い、商品生産は中国・東南アジアを中心とした200社以上の提携工場で直接生産、同社が検品を行っています。
そして、約2,000坪の自社倉庫での物流体制を採用するという徹底した自前主義で低価格を実現しました。
コロナ禍の今はネット上でも、お店に立ち寄ったのと同じようなワクワク感が味わえるようにと、ライブ配信や動画で禍の商品説明、そして、さまざまなツールを使って、ネットとリアルをつないでいます。
堀口康弘/オーサム株式会社社長の年収は?
堀口康弘社長の年収は非公開です。
<オーサム株式会社の年商>
資本金は、5,000万円で売上高は非公開です。
「AWESOME STORE」1号店をオープンさせた2014年に、当店の目標年商を5億円と公表していました。
あくまでも目標値なので、年商を推し量る参考値にしかなりませんね。
東北から九州まで62店舗の「AWESOME STORE」(同社ホームページより)と、ネットの売上などの合計が同社の売上高となりますが、予想は難しい状況です。
堀口康弘/オーサム株式会社社長の学歴は?
どんなことが起きても、持ち前の負けん気の強さと、根性で乗り越えてきた堀口康弘社長の学生時代は、どのようなものだったのでしょうか。
出身大学
国立東京芸術大学油絵学科を二度受験しましたが、結果は不合格でした。
そして、堀口康弘社長は、大学進学を断念しました。
堀口康弘社長の最終学歴は、高卒となります。
出身高校は?
佐賀県立佐賀東高等学校を卒業しています。
堀口康弘社長が小学生の頃、それまで順調だった家業の風向きが変わります。
お兄さんは大学を断念し、働きに出たりするほど悪化していきます。
父親から、「大学に行くなら国立しか行かせてやれない。」といわれていたので、高校時代から国立1本に絞って絵を描くことに集中しました。
堀口康弘/オーサム株式会社社長の思想や座右の銘は?
- 自己評価を意識すれば、他者評価に振り回されることもない。
他者と比べるから自信を無くしてしまう。自分を評価するのは自分である。
自分を信じてできることは全てやるのみ。
- 決して悲観しない。
何度挫折しても失敗しても、それらは必ず人生の肥やしになります。
- 思い立ったが吉日。
すぐに行動することで、情熱は必ず相手に伝わるのです。
- 不安に感じた時は、今がきっと人生の底だと思って前を向く。
底にいるなら、あとは上がるだけだと思えます。
失敗を恐れて立ち止まっていたら企業はやっていけません。それは、人生にも言えることです。
堀口康弘社長のおススメの書籍は、『成長し続けるための77の言葉』著者 田坂広志(PHP研究所)
著者が、「職業人としての成長」「人間としての成長」「人間集団としての成長」について、問いかけています。
この77の言葉は、単なる「言葉の列挙」ではなく、「言葉の階段」として語られています。
一つの問いに対して、一つの言葉で答え、その答えに対して、次の問いが生まれ、また一つの言葉が答える。
まるで言葉の階段を登っていくように、 読者を成長の高みへと導く連続メッセージでもあり、この書を読み進めることによって、生涯、 成長し続けていくために大切な心得を深く理解することができます。
座右の銘は、「行動こそがすべての成功の鍵」
堀口康弘社長が尊敬する人は、中学生の頃からずっとパブロ・ピカソです。
彼の言葉を会社の経営方針にしているほど今でも尊敬しているとのこと。
芸術の世界を劇的に変えた人物で、今も彼を超える人物はいないと思っているそうです。
「創造するためには、破壊する必要がある」と言う彼の言葉は、規定概念を崩さないとイノベーションが起きないということを言っているのです。
このピカソの言葉を心に刻み、オフィスにも『行動あるのみ』と掲げていますし、会議や入社式など大切なときには話しています。
堀口康弘/オーサム株式会社社長の家族はどんな人?
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オーサム株式会社社長の堀口康弘氏は、1955年5月31日生まれで、現在の年齢は66歳で佐賀県出身です。
鉄工所を営む家庭に5人兄弟の4男として、生まれ育ちました。
結婚されていて、息子さんが2人います。
毎年1回は家族旅行をされていたそうですよ。仲良し家族ですね。
まとめ
- 堀口康弘社長の最終学歴は、佐賀県立佐賀東高等学校卒業で、大学には進学していません。
- 堀口康弘社長の経歴は、波乱万丈で挫折をしても前向きに突き進んできた結果今の地位まで登り詰めました。
- 堀口康弘社長は、周りの人々の助けもあり、日本で起業をしました。
- 堀口康弘社長は、尊敬するピカソの言葉を経営方針にしています。
- 堀口康弘社長は、コロナ渦でもチャレンジ精神を忘れず、様々な試みに挑戦しています。