株式会社トリドールホールディングの粟田貴也社長。
世界中に、店舗を構える株式会社トリドールホールディングス。
一代で、世界的な大企業にまで育て上げた粟田貴也社長の経歴を紹介します。
- 株式会社トリドールホールディングの粟田貴也社長の経歴
- 株式会社トリドールホールディングの粟田貴也社長の学歴
- 株式会社トリドールホールディングの粟田貴也社長の年収
- 株式会社トリドールホールディングの粟田貴也社長の考え方や家族
粟田貴也/株式会社トリドールホールディングス社長の経歴は?
<粟田貴也氏の経歴>
1982年 大学を中退後、佐川急便の配達員として働き、起業資金を貯めます
1985年 8月 兵庫県に焼き鳥店「トリドール3番館」 出店
1988年 2号店 出店
1990年 6月 有限会社トリドールコーポレーション 設立 代表取締役社長 就任
1991年 3号店 出店
1995年10月 株式会社トリドール(現:株式会社トリドールホールディング ス)へ組織変更、代表取締役社長(現:代表取締役社長 兼 CEO (最高経営責任者))
過酷な重労働に耐え、起業資金を手にした粟田貴也社長は、自身の地元である兵庫県の加古川駅近くに、念願の1号店を開業します。
8坪ほどの小さな店舗は、カウンター中心のレイアウトになっており、自身が店主との会話で癒されたように、自分もお客さんと会話して、癒してあげたいとの粟田貴也社長の思いが詰まっていました。
しかし、商売は思うようにはいきませんでした。
駅前で、決して立地が悪いところではないのですが、お客様が来てくれないのです。
ここで、諦めるわけにはいかない粟田貴也社長は、人の流れを観察し、思いついたのは、店を深夜まで営業することでした。
当時は、まだ深夜営業をしている店は、まだ少なかったのです。
しかし、働いた後に、ゆっくり時間をかけて飲みたい人もいるはずだという読みは、見事に当たります。
競合店が閉店した深夜になると、顧客が集まるようになり、次第に、店は軌道に乗っていきました。
1988年、加古川駅近くに2号店を、1991年には、東加古川駅近くに、3号店を開店し、3店舗を経営するという、夢は叶いました。
次は、ターゲット層を女性に絞り、おしゃれで、入りやすい店舗を開店。
連日、大盛況でしたが、女性が、ターゲットの競合店が多く、結局、このコンセプトからは撤退することにします。
その次に、狙ったのは、ファミリー層でした。
ここからは、家族向けの焼鳥レストランとして、焼鳥ファミリーダイニング 「 とりどーる 」 の出店を始めます。
この形態が、幅広い層に指示され、トリドールは、飲食業界で確固たる地位を築きます。
そんな矢先、思いもよらない事態が起こります。
2003年、東南アジアを中心に鳥インフルエンザが発生し、日本でも鶏肉に対する不信感が広がっていきました。
すると、即座に、焼き鳥を主要業態とすることを辞めてしまいます。
焼き鳥に変わる主要業態としたのは、うどんでした。
滞在時間が、比較的短いうどん店で、どうやって、お客さんを楽しませようか、粟田貴也社長は考えます。
1号店を開業した時から「お客さんを楽しませたい。」という、こだわりは、業態が変わっても変わることはないのです。
オープンキッチンにして、うどん粉から作っている様子を、お客さんに見せる事をおもいつきます。
キッチンに沿って、カウンターをつけ、そこに並んでもらい、注文を受けたその場で、調理している様子を見てもらって、その臨場感を楽しんでもらうスタイルです。
今では、定番となりましたが、当時は斬新な発想でした。
こうして、できあがった丸亀製麺は、調理場を見せることで、お客にできたて感や手作り感を伝えることに成功し、店舗数が、どんどん増えていき、経営も安定していきます。
しかし、またしても、危機が粟田貴也社長を襲います。
2007年に、改正まちづくり三法が施行されたのです。
この法律により、大規模なショッピングセンターの出店が制限され、多くの小売業が打撃を受けました。
この頃の、丸亀製麺の店舗展開の中心は、ショッピングセンターのフードコート内でした。
また、大きな選択を迫られますが、今回の危機を乗り越えられたのは、粟田貴也社長が、育て上げた社員たちの力でした。
丸亀製麺の出店を決めたころ、同社には、製麺のノウハウが十分に蓄積されていませんでした。
製麺作業は、温度や湿度が品質に大きく影響します。
そのため、社員たちの感覚に頼る部分が多くありました。
そのため、トリドールでは、新規開店前の教育・研修は長めに取っています。
こうして、粟田貴也社長に、育ててもらった社員たちは、数年前からフードコート内だけではなく、郊外のロードサイドへの出店も進めていました。
それが、功を奏し、ロードサイド型の店舗数が増え、改正まちづくり三法の影響を最小限に、とどめることができたのです。
様々な危機を一緒に乗り越えてくれる社員がいるのは、心強いですよね。
これも、粟田貴也社長の人柄の良さを、うかがい知ることができるエピソードですね。
粟田貴也/株式会社トリドールホールディングス社長の年収は?
粟田貴也社長の年収は、約3,000万円と推定されます。
引用元:2021年3月期株式会社トリドールホールディングス有価証券報告書
今期の売上は、前年比マイナス14%と、大きくダウンしています。
利益も下がっていて、新型コロナウィルスの世界的な流行の影響が色濃く出ています。
この影響もあり、役員報酬も下がっています。
今後も、影響は残る可能性があると、予想されますが、数々の危機を乗り越えてきた粟田貴也社長の次の1手が気になるところですね。
粟田貴也/株式会社トリドールホールディングス社長の学歴は?
「何かで成功したい」と、起業家精神を持つようになったのは、10代の頃だったという粟田貴也社長。
起業するために、どうするべきかを常に考えていたという、学生時代は、どのような生活をしていたのでしょうか。
出身大学
神戸市外国語大学を中退しています。
起業資金を貯めるため、大学は夜間に入り、昼間はアルバイトに明け暮れていたそうです。
しかし、アルバイト先に馴染めなかったり、失敗したら先輩から怒鳴られたりと、働くことが、とても苦痛だったそうです。
そのため、職を転々としていました。
そんな粟田貴也社長が、唯一苦痛を感じなかった仕事が、喫茶店の店員でした。
コーヒーを運ぶとお客に「ありがとう」と言われる。
感謝の言葉を言われると、こんなにうれしいものなのかと、改めて感じた粟田貴也社長は、喫茶店を経営する決心をします。
すぐに大学を中退し、開業資金を貯めるために、重労働だが高給が稼げる配達員として働くことにします。
出身高校は?
兵庫県立加古川東高等学校を卒業しています。
同校は、1924年(大正13年)創立の旧制加古川中学校の流れを汲む兵庫県内でも屈指の伝統のある名門校です。
粟田貴也/株式会社トリドールホールディングス社長の思想や座右の銘は?
- “ より多くの地元の皆様に愛されるお店にしよう ”
店舗経営が上手くいっている時は、子供連れのご家族や近所のご年配の方々といった地元のお客様に支えられ、そのお客様に対して、ちゃんとしたサービスが提供できていた。
- 「功崇惟志、業広惟勤」(功の崇きはこれ志、業の広きはこれ勤)
志をしっかり立てれば、結果は高くなり、勤勉であれば、事業は広くなる。
- 「再斯可也」(再びせば斯れ可なり)
物事は、二度考える程度にすれば十分。
迷ったら、あまり悩まず、行動する。
- 座右の銘は、「念ずれば花開く」
夢を見ることも大変ですが、信じることは、更に大変です。
もし、自分を信じることができたならば、夢は、やがて現実になっていくのだと思っています。
粟田貴也/株式会社トリドールホールディングス社長の家族はどんな人?
1961年10月生まれの60歳で、兵庫県出身です。
粟田貴也社長は、早くに父親を亡くし、裕福とは言えない環境で育ちました。
母と、2歳上の兄の4人家族。
母親が、懸命に働き、家計を支えたそうです。
粟田貴也社長は、1985年に1号店を開店した際、幼馴染みの奥様に「店を一緒にやろう!生涯に、焼鳥屋を3店舗持ちたい」と、プロポーズして結婚されたそうです。
息子さんが2人と、娘さんが1人います。
↓カンブリア宮殿に出演
まとめ
- 粟田貴也社長の最終学歴は、神戸市外国語大学中退です。
- 粟田貴也社長は、10代のうちから起業することを目標に据えて、起業資金を貯めるため学生時代はアルバイトに明け暮れました。
- 働くことが辛くて苦しんでいた粟田貴也社長でしたが、そんな時飲食業でお客さんからの感謝の言葉に感動し、飲食業界での起業を目指し、大学を中退、重労働に従事します。
- 粟田貴也社長は、挑戦と失敗を繰り返し、どんどん店舗を拡大していきます。
- 粟田貴也社長は、社員育成にも力を入れており、育ててもらった社員たちは粟田貴也社長と一体となって危機を乗り越えてきました。